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1525年頃、ローマ近郊のパレストリーナの町に生まれる。幼い頃からローマに出て、 サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の聖歌隊員となる。1544年には生地である パレストリーナの教会のオルガニストに就任。幾つかの職を経た後、1571年には 教皇庁カペルラ・ジュリアの楽長となり、それ以後1594年に没するまでその地位に あり続けた。その名声は生前からすでに全ヨーロッパに響きわたっており、 彼の葬儀に際してはローマのすべての聖歌隊が参加したといわれている。
イタリアという国は教皇のお膝元として教会音楽の中心地でありながら、 15世紀のころからその主要なポストは フランドル 地方から招いた音楽家によって占められており、イタリア出身の宗教音楽家が 活躍することはほとんどなかった。16世紀の後半に入って、 ようやくイタリア人の音楽家が台頭してくるのであるが、 その第一にあげられるのがパレストリーナに他ならない。パレストリーナの音楽を語る上で欠かせない事件がトレントの公会議 (1545〜1563)である。宗教改革の波に対抗して開かれたこの会議の場では 教会音楽の在り方についても議題に上がった。その結果、言葉が明瞭に 聞き取れなければならないという立場から、ラテン語の正しいアクセントや シラブルの長短を強調することなどが決定された。パレストリーナの音楽は まさにこの会議の要請に答えるべく形成されたものである。
その音楽書法は、フランドル伝統の 通模倣様式 を 基礎に置きながら、三和音を基礎とした機能的な和声進行の上で常に流麗で 滑らかな旋律が鳴り響き、歌詞の抑揚や言葉の意味を明確にしていくと いうものである。この意味でパレストリーナの音楽は縦と横のバランスが 非常によく取れたものになっている。
その後パレストリーナの様式は教会音楽の模範として扱われ、彼は 「教会音楽の父」として偶像的な存在にまで持ち上げられることになる わけであるが、その書法はルネサンス音楽の頂点とはいえない 折衷的で人工的な要素の強いものであることは否めない。
(宮内)