最近のコンサートより


3月5日(木)
クレマン・ジャヌカン・アンサンブル公演

「パリの物売り声」

紀尾井ホール 19:00〜
演奏者
クレマン・ジャヌカン・アンサンブル
曲目
ジャヌカン
「パリの物売り声」
「鳥の歌」
「狩り」
ジョスカン・デ・プレ
「はかりしれぬ悲しさ」
「オケゲムの死を悼む挽歌」
セルミジ
「早く来てくれ」

1994年、1996年に続いて3度目の来日公演となるクレマン・ ジャヌカン・アンサンブルの、東京での初日。

2年前の公演では客席は9割がた埋まっていたのですが、今回 は6〜7割程度に見える、ちょっとさびしい客の入り。会場が、 カザルスホールから、ひとまわり大きい紀尾井ホールに変わっ たせいだけではないように見受けられます(ホールが広くなっ たぶんかどうかは知らないけど、チケットは2年前よりも安 くなっていました)。

黒い布をかけた長テーブルを5人の歌手とリュート奏者が囲 むいつものスタイル。数曲のリュート・ギター独奏曲を ステージの切れ目にはさむプログラム構成もおなじみのもの。 今回はリュートやギターに加えて、オルガンでの伴奏も数曲 ありました(ジョスカンの「オケゲムの死を悼む挽歌」など で)。オルガン伴奏もリュートと同じくエリック・ベロック が担当。

ホールの広さとステージまでの遠さのせいか(聞いたのは右 バルコニー席のもっとも奥)、コンサート開始直後では、や や声が遠いような印象を受けて不安を感じたものの、すぐに そんなことは忘れてしまい、気がついたらいつもどおりのす ばらしい表現とクオリティに圧倒されていました。とても充 実したコンサートでした。最後に歌われた「狩り」ではコミ カルな表情と延々と引き延ばされる終止和音に会場も大笑い。 聴衆を演奏に引き込んで気持ちが一体となってしまうこのア ンサンブルの真骨頂。

アンコールは、ラッソの「キ・キリキ」と、期待どおり、ジャ ヌカンの「戦争」との2曲で大いに会場をわかせました。

やはり、これは、「ライブを聞かないと魅力のすべてが伝わ らない」グループだといっていいでしょう。過去のレコーディ ングを聞いてこのグループを評するのは、何だか、まとはず れだと思いますし、レコーディングされたディスクのすばら しさだけでこのグループを賛美するのも片手落ちのような気 がします。


さて、今回、評を書こうと思ったのは、演奏会そのもののこ とだけではありません。クラシックのコンサートのプログラ ムと、それを見る客の感じ方について、今回の公演を通じて 考えることがあったので、この公演について、というより、 もうちょっと一般的に、そのことを書こうと思います。


詳細に見比べたわけではないのですが、僕が聞きに行ったこ の日の公演は、2年前の来日公演時の3つのプログラムのう ちのひとつとほとんどまったく同じでした(東京公演のもう ひとつのプログラムは違う)。そのことを指して「前回とほ とんどまったく同じなのでちょっと腹を立てている」「同じ ジャヌカンをやるにしても別の曲にするくらいのことはして 欲しい」「だから今回は聞きに行かない(別プログラムであ るもう一方の公演もいく気がなくなった)」という人がいま した。「手を抜いている」、もしかすると「客をばかにして いる」という風に取ったのでしょうか。M.A.B. のページで の紹介でも「得意のレパートリー」と言いつつ「変わりばえ のしないプログラムと言えなくもないが、まだ実演を未聴の 方には間違いなく一聴の価値がある演目」という表現です。

たしかに。僕も、最初はそう思いました。

でも、あらためて、ちょっと考えてみて、「なぜ同じ曲なら もう聞きたくないと感じるんだろう?」と思いました。

たとえばポップスの場合、ローリングストーンズはいつまで たってもSatisfactionをはじめとするヒット曲オンパレード を歌っているし(アンコールで、ではなく、本編で)、また、 客も「あれを聞くまでは帰れないね」という気分でいるのに、 何でクラシックの場合は違うんだろう、と思ったのです。ポッ プスのコンサートの客は、何度も聞いている「おなじみのあ の曲」を聞くのを楽しみにコンサートに行ってますよね。芝 居でも、同じ公演期間中に何回も見に行く人もいるし、一度 見た人が感動のあまり当日券を買ってまた見に行ってしまう という話も珍しくはありません。

舞台芸術を体験する、ということは、ジェットコースターに 乗るとか、マッサージを受けるとか、そういう類いのもので、 良質のものであるのなら「1度体験したからもういいです」 というものではないんじゃないか、と思うのです。

でも、やっぱり、クラシックの場合って、同じ演奏者の同じ 曲の演奏を何度も聞くっていうのは少ないですよね。自分が 行くコンサートを選ぶ時に、つい「これは前に聞いたことが あるプログラムだから(それがすばらしい体験であったのに) もういいや」と思ってしまう。ポップスのバンドのコンサー トや芝居を見にいくときの選択基準ではありえないこの感覚。 クラシックのコンサートだと僕自身にもそういう気分があり ます。それはクラシックのコンサートが、基本的に芝居やロッ クのようなライブ感(劇場体験)を与えてくれることが多くな いからなんじゃないかなぁ、と今は思っています。

ポップスが「プレイヤーのキャラクター依存(「生きたその 人が目の前で動いているのを見に行く)」であるのに比べて、 クラシックでは「曲そのもの」「演奏そのもの」に対して料 金を払っているという感覚が大きいからなのでしょうか。

「同じ演奏者で、同じ曲だから、もう聞かなくてもいいや」 と言われてしまう舞台は、他のいろんな舞台芸術に比べて (たとえば、まったく同じ内容の数日間の連続公演中に何回 も通うというフアンがいる分野に比べて)、エンターテイメ ント度が(客を楽しませる・感動させる度合いが)ちょっと低 いんじゃないか、という気がしています。「もう一回今のを 聞きたい」「あの演奏者でまた是非あの曲を聞きたい」と思 わせる演奏が出来るのはすばらしいことだと思います。劇団 が「新作」をやるかたわらで「大当たりした戯曲の再演」を やるように。

ここでクレマン・ジャヌカン・アンサンブルに話を戻します と、このアンサンブルは、他と比較して、かなりライブむき のグループじゃないかと思います。ライブに来た人を、「珍 しい曲目だから」とか「聞いたことない曲だから」というの とは別の次元で楽しませてくれます。それは2年前に僕がは じめて聞きに行った時に感じました。

というわけで、僕自身も、最初は「前聞いたからいいや」と なんとなく思っていた自分をすこし考えなおして、聞きに行っ てみました。当夜のコンサートは、このアンサンブルを信頼 していた通りにすばらしく、「前と同じプログラムだったし、 特に新しいこともなくて、つまらなかったね」なんていうこ とはまったく感じませんでした。


なんとなくそういうことを感じた、というだけで、いろいろ 異論もあるでしょうが、書きとめておきたかったので、書い てみました。 (奥野)


[ M.A.B. Home Stage] [4月号目次]